コラム『人のふり見て』
「人のふり見て」(寺だよりコラムより)
お昼ご飯を食べようとした時に限って、玄関の呼び鈴や電話のベルが鳴る、そんな経験はありませんか。どうしてだろうねと妻に聞いてみると、家でも会社でもお昼時は人がいることが多いから、わざとその時間に配達や電話営業をするのだそうです。「お食事時にすみません」なんて言うなら別の時間にしてくれればいいのにと思っていましたが、そういう理由があるのですね。いつの間にか世間に疎くなったものだと自分を省みてしまいました。
同じ家に二度も三度も訪問したくないでしょうし、営業なら効率よく電話したい。その気持ちも分からなくはないですが、楽しみにしていたラーメンがすっかり伸びてしまい、あの業者からは買いたくないなあとひねくれた気持ちになってしまいました。
少し前のこと、七七日忌の日程を相談する時に、お施主さんのご都合と寺の予定の折り合いが付かず困ってしまったことがありました。他のご法事ならひと月ふた月早めることもできますが、七七日忌ばかりはそうもいきません。「お寺さんもお忙しいでしょうから」とお施主さんがご親戚にも調整をお願いしてくださり、なんとか日取りを決めることができました。
当たり前ですが、忙しいのはお寺だけではないんですよね。お仕事・子育て・通院・介護など、皆さんそれぞれ忙しい。体調不良や心の不調など、外からは見えないこともあるでしょう。そういったことを考えもしないで、お檀家さんの「お寺は忙しいでしょうから」というお気遣いに甘え続けていたら、今の時代はいつかパワハラと訴えられてしまうかも知れません。
すぐには変えられなくても、仕事のやり方の工夫やスタッフを増やすなど、いわゆる業務改善の努力も必要だと感じました。
お昼時に呼び出す相手には気遣いを求めるのに、自分は当たり前に相手の気遣いに甘えてしまっている。「人のふり見て我がふり直せ」。子どものころから何度も耳にしてきたことわざですが、歳を重ねるにつれいっそう重要な教訓になってきたように思います。というのも、振り返るとこの「少欲」で何年かに一度は同じようなテーマで書いていて、反省したつもりでもまた同じ過ちを繰り返してしまう自分の成長の無さを実感したからです。
少し情けない気持ちで朝の勤行に本堂に向かい、仏様の前に座ってお経を唱え始めました。我昔所造諸悪業…と懺悔文(さんげもん)から始めるいつも通りのお勤めですが、その朝はお経の言葉にはっとさせられました。
『我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 従身語意之所生 一切我今皆懺悔』(無始よりこのかた 貪瞋痴の煩悩にまつわれて 身と口と意とに造るところの もろもろの罪とがを みな悉く懺悔し奉る)
これまで何千回と唱えてきて、人は何度も失敗を繰り返すから、毎回この懺悔文を唱えるんだなあと思っていました。でも落ち込んだその朝に感じたのは「何度も何度でも失敗して当たり前なんだよ。だから、毎回懺悔文を唱えて失敗を反省すればいいんだよ。」という温かいメッセージでした。
これからも失敗を重ねていくことと思いますが、懲りずに歩みを進めていきますのでどうぞよろしく願いいたします。
合掌
※寺だよりコラムより転載
記:矢田弘雅